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| オレゴン州ポートランド市内から北に車でほんの20分ほどで大コロンビア川を渡りワシントン州に入る。するとすぐ、フォートバンクーバーの標識が見える。まだオレゴン州がアメリカ合衆国の一員である『州』に昇格する前、オレゴン・テリトリー(準州)と呼ばれていたころのお話である。こんな「歴史」がこんなに身近にあったとは驚きでもある。 さて、このフォート・バンクーバーでのキー・ワード * 19世紀前期から日本での幕末のころのお話。
* ハドソン・ベイ・カンパニー * ドクター・ジョン・マクローフリン * さん吉――アメリカ本土に渡った日本人第1号 * ラナルド・マクドナルドーー日本でのESL先生第1号 そもそもオレゴンへは、ジェファーソン大統領の命令にてルーイスとクラークという軍人が部下を引き連れて、ミシシッピー川を遡り、大陸分水嶺を越えて、大河を発見し太平洋までの陸路を踏破した、あの有名な『ルーイスとクラークの探検』(1802‐1806)から『オレゴン・トレイル』へと、幌馬車でのオレゴンへの移住が始まった。日本では『幕末とは1853年にペリー提督が浦賀にやってきて、江戸中が大騒ぎをした時から始まる』とされているので、ここフォートバンクーバーを話す場合は、ペリー提督の浦賀来航の少し前、と考えていい。そのように考えると、完全に都市化していた江戸(人口100万)とまったく未開なるアメリカ西海岸であるオレゴンの地域との差は、人口的、文化的、生産の部分から考えても大きな違いがある。日本との比較文化論はさておき、フォート・バンクーバーの二つ目のキー・ワードに進もう。 |
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| フォートバンクーバーのビジターセンターの前にある、さん吉の碑。 | フォートバンクーバーの入り口とその前の(その当時を再現した)菜園。 |
| ハドソン・ベイ・カンパニーは17世紀、18世紀にイギリスで特権を与えられた巨大貿易会社であった。東南アジアでの東インド会社と同様に、イギリスのアメリカ大陸側でのすべての貿易権などを所有していた。(ちなみにハドソン湾というのは現在もカナダ北東部に実在する湾である)このフォート・バンクーバーは、イギリス軍のものではなく、ハドソン・ベイのものであった。交易の拠点としての砦なのだ。1818年に米国連邦政府と大英帝国が豊かなオレゴンテリトリーを共有する協定を結んだ。国際的な交易所としては、大河がありとあらゆるところから、フォート・バンクーバーのボランティアの説明係員のかたに聞いてみると、このフォートで大砲を使用したり、アメリカ先住民族との銃撃戦などは皆無であったと説明を受けた。要するに、ハドソンベイとしては彼らも重要なお客様であったわけで、そのようなお客と戦うはずがない。このフォート・バンクーバーは1825年に創設され1860年代に解散するまで続く。そのころは砦の中には20−30の建物があり(現在はその中でほんの5−6があるのみ)砦の中だけで数百人が住み、外にはオレゴントレイルでやってきた幌馬車の人たちも多くすんでいた。砦の内外をあわせると1000人以上の大集落であった。 |
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| 砦内の木工室。当時は馬や牛に取り付ける全ての馬具などは当然自身で作る。 | 私が左手で持っている丸い毛皮が一番高価なビーバーの毛皮これが4−5枚でライフルが交換でる。 |
| その中の頂点がドクター・ジョン・マクローフリンである。ドクターなので医者だが、実際には医者としての実務はしていなかったようだ。ハドソンベイのこのあたりのボスなのだ。ハドソンベイとしての交易の仕事はビーバーを始めとして森の中の獣たちの毛皮を原住民またはトラッパー(仕掛けをしておいて後日獣を仕留める、狩猟アメリカ人)から買い上げることである。一番高価なビーバーの毛皮は山高帽に使われ、ひとつの帽子が現在の価格で$600US程度もした、とされる。毎年、春から夏にかけて毛皮が砦に集積され、9月にイギリスに向けて船出する。イギリスまで8ヶ月の航海。 |
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| 当時の鍛冶屋さんを再現してくれる。当時、ここで一番多く作られていたものはビーバーを捕まえるための罠。 | 一番大切な水を得るための井戸。 |
| さて、このドクター・マクローフリンの住む家(砦の中にある)だけは、(外側は至極普通の家のように見えるが)、内部は1800年代前記のそれも未開のオレゴンの地にこれだけの家具、お皿、などが揃えられたものか??と感心する。因みに、お皿類はすべてイギリスの(知る人ぞ知る)Spode(スポード窯――1906年より英国王室ご用達になった超高級陶器類ブランド)をフォート・バンクーバーの正式なご用達とした。そのためドクター・マクローフリンたちは毎日Spodeのお皿で、このオレゴンの未開の地で、食事をしていたのだ。見学の中ではっきりと見ることができた。聞いてみたら、この砦で、Spodeの新しいオーダーをして、この砦に配送されるまで約2年を要したとのこと。 また、1834年大阪から江戸へ向かう貨物船が難破し、多くの米俵だけは船の中にあるだけで、14ヶ月もの漂流の末、現在のワシントン州の片隅に漂着。その地域の先住民族マカ族に(フォート・バンクーバーに出荷する)毛皮の荷物の中に日本語の手紙を託した。これが、アメリカ大陸への日本人として最初に到着した音吉、岩吉、久吉の3人である。この3人をまとめてさん吉という。徳川幕府の鎖国政策に対し、イギリスは何とか開国をしたく思っていたため、このさん吉たちをその外交に使えないかということで、イギリスまでさん吉たちは送られ、さらにマカオまで行った。しかし、残念ながら1837年イギリスのモリソン号で江戸湾まで行ったが、無警告で砲撃をうけ、鹿児島湾でも砲撃を受け、、日本との交渉を諦めマカオに帰還した。音吉はイギリス市民権を得、1849年と1854 年のイギリス海軍が浦賀と長崎に行った際の通訳をこなし、評判になった。 |
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| ドクター・ジョン・マクローフリンなどが使用していたお皿、陶器類。イギリスの王室ご用達のスポード製。 |
ドクター・マクローフリン邸での子供部屋 |
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| ドクター・マクローフリン邸の正式ダイニングルーム |
| 最後にもうひとつだけこの砦に因んだキーワードが残っている。それは、日本へのESL教諭(英語の先生)第1号、なのだ。さん吉たちが1834 年にフォートバンクーバーに連れて来られたおり、なぜか、自分自身とのルーツのつながりを感じた人間がいた。それがラナルド・マクドナルドだ。かれの母は先住民族で彼は今で言うハーフ。そんな彼が、さん吉たちを見たときに、『彼らは私のルーツなのだ』と直感したという。ラナルド・マクドナルドはアメリカの捕鯨船にのり、北海道の礼文島に漂着したような振りをして、日本へ密入国をする。が、しかし、すぐに松前藩につかまり、なんと今度は長崎の座敷牢に送られる。そこで約1年、彼は過ごすことになった。ラナルドは座敷牢の役人に(3人)英会話を教え始める。その3人が、1853年ペリー提督浦賀来航の際に、日本が側の通訳をするのである。もし、ラナルドが英会話を長崎で教えていなかったら、ペリーの浦賀来航はどうなったことやら??? |
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俳優中井貴一さんが、結婚披露宴を挙げたことで有名になったウィラメットビンヤードワイナリー。吸い込まれそうな、緑の丘の上で、優雅にワインを楽しんだ後は、オレゴン州最大のアウトレット、ウッドバーンでショッピングを堪能。極めつけは、廃校になった小学校を地ビール工場兼レストランにしてしまったという、なんともユニークなケネディースクール

ポートランドでも、このお店でしか飲めない地ビールは、試してみる価値あり。










